短編小説『回らない寿司屋の大将は恐ろしい』前編
ある寿司屋を訪れた時の事。
その日は、小雨の降る肌寒い夜だった。
私は、ふっと通りかかった裏路地に、ポツンとたたずむ小さな寿司屋に気がついた。
「へぇ~~、こんな所に寿司屋があったんだ……」
タイミングを見計らったように、私の腹の虫が鳴き出した。
値段はわからないが、たまには回らない寿司もいいだろう。私は思い切って暖簾をくぐり、店内に入った。
「へい、らっしゃい!」と活気の良い声が響く。
元気な挨拶をしたのは、歳は30前後の程で、大柄でガッチリしたプロレスラーのような板前。その奥に70歳程の大将がいた。
店内は年季が入っており席はカウンターのみで、客が二人いた。ここの常連だろうか?
私は手前の一番端の席に腰かけた。
板前が熱々のおしぼりを持ってきて、湯飲みに入ったお茶をカウンターに置いた。
「お客さん、何を握りやしょう?」
そう聞かれて、メニューを見ると全て時価と書かれており、思わず生唾を飲み込んでしまう。
でも、大丈夫だ、給料が入ったばかりで財布の中は暖かい。
しかし、何を食べるか迷うな。こういう時はお任せで握ってもらえば間違いないだろう。
「お任せで握って貰えるかしら?」
「あいよ、かしこまりました!」
初めての回らない寿司屋での注文。何が出てくるのか楽しみだ。
「大将、お任せです」
「あいよ」
板前が大将に注文を伝えると、大将が機敏に動き出した。素早くネタを取り出し、刺身包丁で華麗に裁いていく。動きに一切の無駄がない。熟練の動き、長年培った確かな技術が身体中に染み付いてる。
その時だった!? 大将の調理用クリーンハットに黒光りする虫が張り付いているのを見つけた……間違いない……奴だ! 料理屋にはいてはいけない生物……漆黒の悪魔ゴキブリだ!
誰も気づいていないのか? 目の前にいる客二人、横にいる板前。あんな真っ白の帽子に黒光りのゴキブリが張り付いているというのに。
どうしよう? 言うべきなのかな?
などと迷っていると、ゴキブリが動き出した。帽子から大将の顔に移動する。しかし、大将は気付かずに黙々と作業をこなす。何て集中力だ! 大将、恐るべし!!
そして、ゴキブリは大将の顔から邪悪な翼を広げて飛び出した。ゴキブリは一直線にこちらに向かってくる。どんどんと迫り来るゴキブリ。まさに進撃のゴキブリの如し。
「お客さん、危ない!?」
板前が私の前に飛び込んで、ゴキブリに向かってく豪腕を突き出した。その拳をゴキブリはひらりと交わして、板前の口の中に消えた。
「い、い、いやぁぁああああ!!!!」
まるで乙女のような叫び声を上げて、板前は口から泡を吹き出しながれ崩れ落ちた。
その叫び声に、二人の客が驚いて顔をこちらに向けるが、大将は黙々と作業を続けている。
「お、おい、何があったんだ?」
二人の客と私は板前に近づこうとしたが、板前はゆっくりと立ち上がった。
「だ、大丈夫ですか?」
私が声かけると、こっちに視線を向ける。
板前はにっと笑うと、客の一人の顔をわしずかみにして、私に向かって勢いよく放り投げた。私は咄嗟にしゃがんで交わしたが、放り投げられた客はそのままドアを突き破り外まで飛んでいった。
「悪くない……この人間の肉体は」